2006-12-27 (vol. 134)
─ 舞踏家・竹之内淳志さん インタビュー
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東欧、
ポーランドでの舞踏

■東欧での活躍も多い。
『東欧ではチェコ、ベラルシア、ハンガリーなど数カ国行ったことがありますが、ポーランドが一番多いですね。初めて行ったのは1999年。この時は一日だけだったのですが、2000年以降、年間2〜3ヶ月滞在しています』

■東欧でも舞踏はよく知られているのでしょうか。

『フランスやドイツは25年前に舞踏は上陸しているわけですが、東欧の人たちはここ10年ぐらい。「舞踏?なんか聞いたことがあるなあ」という感じですね。東欧で仕事をする日本人の舞踏アーティストは僕を含めて数人ですね。背景には経済的に強い日本などから舞踏のアーティストを招聘するということが、ギャラの問題などで難しいという事情があるようです』

■公演にはお客さんがたくさん入る。
『そうです。とはいえ最近はやや減少気味ですね。お客さんの目が少しづつ肥えてきたため舞踏の公演も選ぶようになった』

■よく行かれるポーランドで舞踏はどういう受け止めかたをされていますか。

『ポーランドには有名な前衛演劇人にグロトフスキ(※)という人がいます。この人の存在があったために舞踏を受け入れやすい土壌になったようです』
※イェジュィ・グロトフスキ(Jerzy Grotowski)
ポーランドのシアター・ディレクター、理論家、教育者、アクティング・メソッドの創造者。1933年ポーランド南東部の町ジェシェフ(Rzeszow)に生まれる。1999年にイタリアのポテンデラ(Pontedera)で亡くなる。シアターにおける20世紀の傑出した改革者の1人とみなされている。

■グロトフスキという人はどういうことをした人ですか。
『演劇から言語を少なくして身体表現をたくさんいれていくと、コンテンポラリーダンスのテクニックをたくさんいれていくことになる。グロトフスキは身体表現に着眼した演劇をしていた人なんです。台詞に頼らない演劇「フィジカルシアター」をはじめた人ともいわれています』

『具体的にはギリシャ神話のようなものと、アウシュビッツでの出来事をミックスするような作品を作っていました。彼の身体表現は自分の内面から出てくる動きをどう見つけるか、というテクニックがかなり多く、かなり舞踏と似ていますね』

■なるほど、舞踏を受け入れる下地はあった。
『それからもうひとつ。カントル(※1)という人がいた。この人は画家であり、かつ前衛演劇の人なんですが、ポーランドの王国時代の首都クラクフで「死の教室」(※2)という有名な作品を残している。これにもまた舞踏に近い要素が見出せます』
※1 タデウシュ・カントル(Tadeusz Kantor)
1915-1990年。ポーランドのステージ・ディレクター、ハプニング・クリエーター、画家、風景デザイナー、ライター、芸術理論家と様々な顔を持つ。自身の作品で俳優としても活躍。構成主義やダダ、アンフォーメル、シュールレアリズムなどの影響を受ける。クラクフ(Keakow)のファイン・アートアカデミーで教育を受け、その後、教壇にも立っている。
※2 死の教室 (原語タイトル:Umarla Klasa / 英語タイトル:The dead class)
1975年クラクフ(Keakow)にて初演。カントルを世界的に有名にした前衛演劇。老人になった小学校の同級生が思いでを語り合うというシチュエーションで展開される。この作品に触発されたアーティストも多く、日本でも上演されている。翌年1976年にポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダによって映画化された。

■ポーランドは前衛演劇が盛んなんですね。
『グロトフスキとカントルの2人がなぜポーランドで有名になったかというと、当時の社会状況が大きな背景にあります。彼らはいずれもソビエト時代の人たちなんですが、当時のポーランドは言論の自由が剥奪されていたわけです。必然的に身体を通して自己表現を開放していく方向で言語を抽象化していくことになった』

『戦争反対、共産党反対とはっきり言わないが、何か身体から醸し出している。本当のことや自由を語るのは身体なんだというわけですね』

■切実さの中から生まれてきた
『そう。同時に暗さのようなものから逃げられない。なぜかというとちょっとでも自由とかそういうことを言っていたら秘密警察に連行されて、突然いなくなってしまうアーティストもいっぱいいた時代だった。それだけに暗さ、怖さのような暗黒とも付き合っていかない限り、表現が成立していかなかったのではないかと思うんですね』

■時代が求めていた。
『その時代に嬉しいこと楽しいことばかりの表現をしても皆が共有できなかった。それに、現実は厳しい状態なのに国が見せる「美しい共産主義の生活」なんて誰も信じないわけです』
『たとえばフランス的なおしゃれな雰囲気のものに対してポーランドの人はあこがれを持っていたかもしれない。しかしそれよりも本当に開放されることのほうが切実だった。そういった社会状況が生み出したものと同質の感覚をポーランドの人は舞踏の中に見出したのではないかと思います』
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発  行  人 : 高松平藏 
発  行  日 : 不定期

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