2006-12-27 (vol. 134)
─ 舞踏家・竹之内淳志さん ロングインタビュー
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自我を環境に
同化させる


■動き自体を開放するというのはどういうことですか。

『たくさんのコンテンポラリーダンスの中にはどうしてもバレエが基礎になっているものも多い。つまり、まず体から規定しているところからの作業があるわけです』

『それに対して、たとえば氷が薄く張った湖をあるいてくださいといったイメージから舞踏ははいる。このイメージに対してどんな形を自分がつけてもかまわない。ただ、自分が本当にそう感じたものでしか歩けない』

『イメージを通して踊るということは、かたちは規定されず、イメージを通して自分の肉体を開放させてしまう。舞踏にはそういうからくりがあるのではないかと思っています』

■舞踏の創始者・土方巽は舞踏譜を残しています

『舞踏譜には「なめくじの頭」などといったイメージがかかれている。「煙」と同様にナメクジを見せたいわけではなんでもない。ただそういうイメージを自分の体にほうりこんだときに、自分の体から何が立ち現れるか、ということなんですね』

■肉体の開放といっても決して激しく踊るということではない
『そういうことです。自分の内面を身体を通して開放させてしまうわけです。こういう踊りはたぶん、欧州の中にはあまりないと思います』

■竹之内さんは自分の踊りを『じねん舞踏』と呼んでいる。

『舞踏では空気をまとって空気の衣装を着る、風をまとって風達磨になって走る、といったことをやります。土方巽先生も言ってますが、「山さえも衣装にすることさえ可能」です。山と自分の隔たりがない、その時点で「自分」とはいわない。まとった風景に踊らされている。山に踊らされている、木に踊らされている』

『自然(しぜん)と踊るというと、自然(しぜん)は美しい、その美しい環境でおどりましょう、ということで終わる。しかし自然(じねん)と踊るというのはすべての環境、たとえば機械であろうがコンピュータであろうが何でもいいんだけど、それをあやつって踊るというのではなくて、そこの場のあらゆる環境にあやつられ、共鳴している。自分の身体がそうなってくる。そういう意識のようなことを舞踏はもっていて、これが私の「じねん舞踏」です』

■なるほど、自我さえも、まわりの環境と同化させるわけですね。
『シアターで上演されるダンスには、かたちをつくる踊りがほとんどです。そういうアーティストたちも「衣装をまとって、衣装を自分の身体として感じる」といった話までは理解できる人が多い。ところが風景もまとって、風景を自分の体と思えるかというとなかなか理解できないと思う。それだけに、通常の身体と踊りの関係とは違うかたちのものを舞踏を通して伝えたい』

■一方、竹之内さんご自身、いろいろなダンスにも興味をもたれていますね。
『そうですね。僕自身の踊りには色々な要素が入り込んでいるし、普段の暮らしも踊りに反映しています』

『僕は色々なところを旅をしてきたわけですが、たとえば、アイヌの人と触れあたり、沖縄で知り合った人に踊りを教えてもらったり、アクロバットや日本舞踊など僕の踊りはいろいろなものが影響してできている。そうやって吸収した踊りを意識的に使おうというわけではないが、自然に立ち現れてくるんですね。その点、舞踏はすべての踊りの接着剤といえる』

■他のダンスに舞踏的な要素を見出すことはありますか
『フラメンコなどはダンサーがハイになってくると舞踏のような動きがいっぱい出てきます。インド舞踊でもそう。あらゆる踊りの中に本当にダンサーの魂が宿った状態になったときに舞踏的なものがでてきます』

『そういうことからいうと、舞踏というのは一つのジャンルというより、すべてのダンスに共通する魂を育てる踊りといえるかもしれません』 (次へ)
■■インターローカルニュース■■

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発  行  人 : 高松平藏 
発  行  日 : 不定期

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