■子供とカフェへ
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欧州の都市にはカフェがある。 |
スターバックスの貢献度が高いのか、カフェという形態が日本でもすっかり定着した。メグ・ライアンとトム・ハンクスが出演していた『ユー・ガット・メール』(1998年、日本公開は99年)では、電子メールが重要な道具として使われ(まだダイヤルアップだった)、スターバックスが印象深く登場した。電子メールとスターバックスという取り合わせが、当時の日本でも先端でおしゃれという雰囲気が共有でき、『ほうー』と思いながら見たものである。
スターバックス云々以前に、カフェといえば欧州の都市の風景に必ずといっていいほどある。ドイツの場合、法律で一般店舗は日曜日の営業ができないが、カフェやレストランはOK。暖かくなってくると、店外にテーブルとイスが並び、人々がぺちゃくちゃ喋っている。
そんなカフェに時々子供と行くことがある。たとえば、私と次女だけ、はたまた妻と長男だけ、といった具合に一人づつだ。
子供を育てるときに、『親の背中を見て育つ』というやり方もあるだろうが、私たちは、家族の時間を大切にするという方針をとっている。
しかし、そうはいっても、なかなか諸事情で一人づつ子供と向き合うということができなかったりすることもある。また、子供の様子を見ても、『ゆっくり一緒に話したいんだけど』という感じが伝わってくることがある。
そんな時に出てきた案がカフェに行くことだった。今から3年ぐらい前の話である。
■こちらもほっこり
当初は日を決めて、『この日は長女と妻が一緒に行く』といったようなやり方をしていたが、最近はもう少し柔軟に、行けるときに行くようにしている。
次女の場合だと、一番下の長男の勉強を見てくれたりすることがあるのだが、『よくやってくれたから、ダンケ(ありがとう)カフェ1回』などという具合に、クーポン化。まあ、厳密に券をつくるわけではないが、『次、機会があると、お礼にカフェに連れていくよ』といった感じである。
数か月前に、次女と2人でミュンヘンまで行くことがあったが、この時は『ダンケ・カフェ』だった。天気のいい日で、たいした話をするわけでもないが、『あっつつ』と言いながら次女が好物のホット・チョコと格闘しているところを見ていると、こちらもほっこりしてくるものである。
私と子供がカフェに行くのは、演劇やダンスの公演を一緒に見にいったあとが多い。私はしばしば招待券をいただくのだが、演目に応じて、長女か次女のどちらかと一緒に行く。この場合、作品の話をできるのがなかなかいい。
応用編としては、『眠れない』という長女と、テラスの椅子に座って、30分ほどぼそぼそと話をすることがある。これはお金がかからないので、なおよし、だ。
■秘密の時間
よく男の子は母親を慕い、女の子は父親を慕うという傾向があるが、一番下の8歳の長男などは、まだまだ母親に甘えたがるところがある。
先日も、妻は長男を連れて市街へ買いものに行ったが、ついでにスターバックスに寄って帰って来た。帰宅後、妻がそのことを私に打ち明けた。長女と次女には内緒である。私は長男と2人になったとき、『ママとカフェに行ったって?よかったなあ』と声をかけると、むちゃくちゃ嬉しそうな顔をした。この顔、私はおそらく一生忘れられないだろう。そんな顔だった。
長男の反応はわかりやすい例であるが、いずれにせよ子供一人とカフェに行くのはなかなかいい。まず物理的に1対1で時間を共有するわけで、子供にとっては自分と父・母との特別な秘密の時間を持ったという大きな実感を持てるようだ。
■妻の誕生日
わが家はそんなカフェの使い方をしているが、全員で行くこともある。
先週は妻の誕生日だったのだが、夕方、自転車で市街へ行き、映画を見た。入ったところは、いわゆるミニ・シアターで、東京でいえば岩波ホールのような作品を上映する映画館だ。
映画を見たあとは、よく行くカフェ・レストランで食事をした。8時を過ぎていたが、夏時間の欧州はまだまだ太陽が出ている。店外のイスとテーブルにどっかり座った。
映画は決して子供向けではなかったけれど、なかなかいい映画で、子供たちもけっこう細かいところまで覚えていた。そのせいか、けっこう話が盛り上がった。
カフェというと、17世紀、イギリスのコーヒー・ハウスの話にはじまり、情報交換や社交の場として欧州の市民社会と関連づけて語られることがあるが、親子のコミュニケーションにも一役買っている。(了)