■他人が『日本人』と規定
日本国外に住むと、自分が日本人だと思うことがある。それは私の経験の範囲でいうと、『ああ、おれって日本人』と独り言でも呟くように思うのではなく、他の人が私のことを日本人として見るからだ。
たとえば、毎週柔道の練習をしているというと、『(日本人なんだから当然)黒帯の名人でしょ』と言われるが、『ドイツに来てから柔道をはじめたので、私の先生はドイツ人ということになるよ』というと、苦笑される。
あるいは、ドイツのよその町へ行ったときに、ある人が『どこから来たのか』と聞いてきた。即座に『バイエルン州のエアランゲンからだ』と私は答えた。すると、『いや、ちがう、ちがう、どこの国から来たのかという質問だ』と苦笑しながらもう一度質問してきたのであった。ドイツ語もヘタで、見るからにアジア系。そりゃ私はどう見ても外国人である。
そうかと思えば、こんなこともあった。
わが家は家族全員で休暇を過ごすために自動車でイタリアまで行くことがある。イタリアの高速道路を走るわけだが休憩所の店で子供と何かを買いにいった。当然英語でのやりとりになる。どう見ても外国人だからだ。
次に料金所を通ったときだ。この時、私が運転していた。料金所のおばさんは私の顔を見たわけだが、その隣には私の妻がいる。自動車のナンバーを見ればドイツから来たことはわかる。おばさんは、英語ではなくカタコトのドイツ語を話した。私の風貌はどう見てもアジア系だが家族には『ドイツ人』がいて、ドイツに住む家族だということを瞬時に判断したということだろう。
■風貌と国籍
風貌から見たときに、どうみてもアジア系の女性に、つい『どの国から来たのか?』という質問をしてしまったことがある。少し口をとんがらして、『私はルーツは韓国だけどドイツ人です』と返されてしまった。
失礼な聞き方をしてしまったと反省しているが、これは人ごとではない。私の子供も長女と長男の風貌はどちらかといえばアジア系の要素が強い。今はドイツと日本の両方の国籍を持っているが、将来もし、ドイツの国籍でいけば、同じようなことがおこりうる。
失礼といえば、ある集まりで、ドイツ人と思われる男性が、私の顔を見るなり、中国語で挨拶してきたことがある。推測の域を出ないが、夫人が中国人なのか、あるいは本人がアジアに興味があったり、なんらかの接点があるのか、そんな感じの男性である。それにしてもアジア系というだけで、母語の断定もできないのに、いきなり中国語で話かけるのは失礼というものだろう。
ドイツも外国人が増えて、随分かわってはきた。が、私の住むあたりでは、まだまだアジア系・アフリカ系は外国人と判断されがちで、私の経験の範囲でも一致する。しかし風貌で外国人かどうかを判断するのは次第に困難になってくるだろう。どこで読んだのか、うろ覚えだが、夏目漱石もロンドンに向かう船で、アジア系の人に思わず日本語で声をかけたら、中国語だったかで返事が帰ってきて、風貌で判断するのはいけない、といったようなことを書いていたと思う。
そういえば、関空で職員(?)の女性が外国人になんらかのアンケートをとっているところに遭遇したことがあった。女性は欧州系の風貌をした初老の男性に話しかけたところ、その男性は『私は日本人です』と答えたのを見たことがある。その男性はこの手のまちがいに慣れているようで、苦笑い。女性は『失礼しました』と謝った。
■関西系エアランゲン市民
わが家は、日本とドイツの文化を意識的に家庭内にちりばめているが、それでも結局私のベースは関西だ。私の子供たちが話す日本語も関西弁。妻の日本語も結婚してからは関西弁に変化してしまった。
私が住まいしているエアランゲン市は、妻が育った町で、私自身もたいへん親近感を持っている。だから、よその町へ行って、エアランゲンに近づくと『帰ってきた』という気持ちになるし、『ドイツに住んでいる』というより『関西からエアランゲンに来た』という意識のほうが強い。とりわけ、関西系エアランゲン市民といったところで、『エアランゲンは2番目の故郷だ』という言い方をしている。
インターナショナルというよりも、インターローカルという意識で私のなかでは日独がつながっているかたちだ。
人間、なんだかんだいって、いろんなアイデンティティを持っている。なんらかの属性を心のなかで持っていないと、居場所がないような気持ちになって、不安になるのだろう。
そこへ、グローバリゼーションというものがおこっている。
これによって、国籍や地域といった部分での個人のアイデンティティの持ちようはより複雑になってくる。私の子供などは、いやおうなくアイデンティティの持ちようは複雑になるだろう。私じしんですら、関西、エアランゲン、日本、ドイツという『点』があり、『どう見られているか』『自分がどう感じているか』という『線』で複雑につながりあっていることを実感している。(了)
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