ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2010年3月19日



ドイツで受けた日本についての質問


ドイツにいると、日本について質問を受けることがある。そんな質問を紹介するとともに、日本の存在感について書きとめておきたい。


無とはなんだ?
時々、日本文化について聞かれることがある。
とりわけ、毎週通っている柔道の練習で質問を受けることが多い。たとえばこんな具合だ。

『日本には、なぜ格闘技が多いんだ。柔道、空手、テコンドー、カンフー・・・』
『ちょっと待った。テコンドーは韓国、カンフーは中国だ』

たずねてきた彼は、22歳、エジプトから留学でやってきた青年だ。それにしてもテコンドーもカンフーも日本のものと思っていたとは、かなり大雑把である。

もっとも、こちらもエジプトときくと、ローマの御仁がエジプトのべっぴんさんと浮名を流したとか、『余の辞書には不可能はない』と言った男が団体で押し寄せたとか、まあ、その程度のことしか、ぱっと思い浮かばない。偉そうなことはいえた立場ではない。

それで、質問がもうひとつきた。
『柔道というのは古いのか?』
『柔術が発展したもので、もとはサムライの接近戦の戦闘技術だった』
『あ、なるほど』
彼なりに合点がいったようだ。

柔道と空手の有段者(ドイツ人)からこんな質問を受けたこともある。
『“無”というのはなんだ?』
『難しい質問やなあ。あそこにいる彼に聞くのが一番いいんだが・・・』
“あそこにいる彼”とはドイツ人だが、仏教思想も勉強している柔道の有段者だ。が、私は話をついだ。

『・・・柔道では心・技・体の3つを鍛える。“無”を柔道と関連付けるならば、“心”の部分といえるかな』。

『無』そのものについて、きれいに答えるには私には荷が重かったが、質問してきた彼は『心・技・体』という3つの分類が新鮮だったらしく、『ありがとう』といって嬉しそうに去って行った。

私が通っている柔道場での観察からえいば、だいたい、『健康維持』『強くなるため』という二派に分かれる。武道に伴う哲学を見ようという人は少数派だ。その点からいえば『無とは何か』という質問は、なかなか難しいが、彼なりに武道に伴う哲学に着目したということであろう。

分野は異なるが、こんな質問を受けたこともあった。
『日本には中国から入ってきたものが多いときく。北京オペラは能楽のルーツか?』

質問の主はごく普通の50代男性のドイツ人。文化全般に関心が高い。

『能楽のルーツをたどると、中国の影響がゼロというわけではない。また現代に残る演目でも中国のエピソードからできているものもある。それにしても、京劇と能楽はまったく違う。たとえば発声。能楽はもっと太い声』
『ああ、そういえば京劇はネコの鳴き声みたいやなあ』
『そうそう、そういうこと』
『でも、まあ、舞台なんかもおんなじような造りなんだろう?どっちでもいいけどさ』
『どっちでもいいってこたあないってば。京劇の舞台構造については知らないけど、少なくとも能舞台には確立された独自のスタイルがある。ヨーロッパの劇場とはかなり違うかたちでね』

後日、彼には京劇と能楽の違いがわかるような、ウェブサイトをメールで送っておいた。

過去の貯金
日本の存在感が高まったのは80年代だった。自動車などが国外市場で広がりだし、同時期に山海塾や白虎社に代表される『暗黒舞踏』などがよく紹介された。自動車に関しては、昨今プリウスが物議をかもしだしているが、それにしても、以前から日本車は故障が少ないという定評がある。舞踏などは、日本でも今の若い世代は知らない人のほうが多いかもしれないが、ドイツでは、ある一定以上の世代には今もわりと知られている。

工業製品が進出する以前はというと、たとえば柔道の場合、嘉納治五郎が柔術を柔道というふうに発展させ、ある種の近代化を行った。そして、オリンピックなどの西洋のスポーツ文化と接近した。嘉納はアジア初の国際オリンピック委員であった。こういったことが日本の武道の広がりにつながったのだと思える。

また、今年にはいって、ドイツのある放送局では一週間にわたり、日本の特集番組を組んだ。宗教、女子プロレス、食文化、過労死、村上隆、坂本龍一など、かなり幅広いテーマを扱かわれた。日本への関心の高さをうかがわせる。

中国・韓国の勢い
それにしても、日本の存在感はかつてのブームによるものが大きく、昨今はスシや豆腐などの日本食をはじめ、マンガ・アニメといったサブカルチャーが日本の存在感をなんとか支えているように思えてならない。

そして、いろいろな場面で中国・韓国の存在感の大きさがうかがわれる。

たとえばドイツやフランス、スェーデン、そして日本と中国も参加しているプロジェクトがあった。新聞記事ではいかにグローバルなプロジェクトであったかを強調され、こう書かれた。

『参加国はドイツ、フランス、スェーデン、そして、中国!』

なんと日本の存在がすっとばされていた上に、この書き方からいえば『中国』をことさら強調されていたわけだ。

私の個人的な体験を加えるならば、最近、中国人と間違われることは少なくなった。これは換言すれば、ドイツの人々がアジア系の外国人と接触する機会が増え、見分けがつくようになったということなのではないかと思えるのだ。

未来への投資が必要
一方、ドイツ人の『本音ベース』でいえば実は中国(人)に対する悪態もなかなかのものである。しかし、そもそも台頭してくる勢力に対しては程度の差こそあれ、メリットを見出す人もいるが、同時に恐れや妬みという感情もおこるものである。

日本が経済的勢いをつけたころも、日本バッシングがおこったことは周知の通りだ。うろ覚えだが、当時、BMWの経営者が、日本車には哲学も何もない。われわれの自動車は日本のものとは違い、伝統にのっとったものだ、という趣旨の発言をしていた。要は日本車の台頭にいら立ち、同社の自動車が文化・文明として、いかに正統であるかということで対抗しようとしたということだろう。

ドイツに住んでいると日本の実情はよくわからないが、ネットや友人・知人からのメールから鑑みると、かなり暗そうだ。しかし、そんな今だからこそ、国外に向けて、文化や技術をアピールするような投資をすべきだろう。さらに外交戦略そのものもしかるべきだ。今の日本の存在感が過去の貯金によって支えられているといっても過言ではない。

話がやや悲壮になったが、最後に、番外編としてこんな質問をされたことを書いておこう。

『日本人の挨拶はお辞儀だが、お互い頭をぶつけることはないのか?』
『じゃあ、たずねるが、ヨーロッパ人はわれわれより鼻が高い。キスするときに鼻をぶつけることはないのか?』

その場は大笑いになったことはいうまでもない。文化の問題は楽しく話し合いたいものである。(了)


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