ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2009年11月27日



ドイツの兵役についての感覚


外交や安全保障といった側面から『普通』の国家は軍備を持っているといわれる。ドイツもそんな『普通』の国ということになるが、そのせいか生活の中でも『兵役』が普通にある。そんな様子を書いておきたい。

ドイツの兵役
街の中心にある広場で行われた連邦軍のビッグバンドのコンサート。広場は聴衆でいっぱいになった。(エアランゲン市、2009年8月13日撮影)
日本には憲法9条がある。これについてここで、あれこれ論じるつもりはないのだが、9条に賛成する人たちによって歓迎されていると思われるのが、ドイツの兵役拒否だろう。

ドイツでは18歳以上の男子に9か月の兵役義務がある。しかし、良心的兵役拒否が可能で、その代わり病院や老人ホームなどで働かねばならない。

兵役に関する議論や制度はドイツでも時とともにいろいろな様相を呈しているのだが、最近は、兵役に行くのは15%程度らしい。逆に病院や老人ホームなどの社会福祉分野の現場にとって労働コストの安い担い手として必要不可欠な存在になっているのが現状だ。

乾杯、連邦軍!
それにしてもドイツに住んでいると、兵役がごく普通に彼らの生活の中にあるのを感じる。たとえば年頃の息子を持つ友人や知人などからは、『今、息子がどこそこで兵役だ』というような話を時々きく。

また、ビール祭りのときに友人たち5、6人で盛り上がっていたところ、どういうわけか、連邦軍での兵役の話になったことがあった。彼らの年齢はばらばらだが、私以外は皆ドイツ人で、兵役についた経験を持っていた。ついには『乾杯、連邦軍!』などと言いだす始末だ。

兵役の話になったあたりから、すでに私はついていけなくなっていたのだが、『乾杯』が出てきたときには、もう完全に取り残されていた。戦友という言葉があるが、あれに近い連帯感を彼らは持っていたのだろう。それがビール祭りなどで顕在化するわけだ。

そして、私はそのうちの一人に、兵役拒否をしようとは思わなかったのか尋ねたのだが、ごく普通のこととして行ったという答えがすっと返ってきた。

それから、こんなこともあった。私は柔道をしているが、稽古の時に『匍匐(ほふく)前進』のように這うようにして移動するトレーニングをすることがある。隣にいた友人に『こりゃ、軍隊みたいだね』と冗談を言った。すると彼は、『そういや、ヘイゾーは兵役は行った?』ときいてきた。『いや、行ってないよ』と答えて、『日本に兵役はない・・・』と続けようとしたが、間髪をいれずに、『オレも兵役には行ってないんだよね』と彼は言った。このつかの間のやりとりは『兵役は普通にある』という感覚が前提で出てきた話ぶりだった。

もっとも、兵役義務はわりと簡単に免除されるようだ。彼が兵役に行かなかった理由は、身体検査でどこか具合の悪いところが見つかったからだが、柔道ができるような体である。また別のある友人も背骨に少し問題があって、軍には行ってないが、健康そのものだ。些細な問題が見つかれば兵役には『行けない』らしい。

それでも中には『ズル』をするやつもいる。私より少し年上の知人は、医者の息子で、若いときにうまくやって兵役を逃れたという。

浮き上がる、日本の複雑さ
日本の自衛隊が外国では軍隊と認識されていることも多いと聞くが、それを実感することもあった。

たとえば、ある時、息子が兵役に行っているという友人が、『日本は兵役がないのか?』と私にきいてきた。
『ああないよ』と私。
『でも安全保障なんかはどうするの。あ、でも日本にも軍隊はあるじゃないか』。
『そうだね。でも紙の上(憲法上)では軍隊じゃないんだよ。これが日本の複雑なところだ』。

彼は左派政党のSPD(ドイツ民主党)の党員で、この手の議論では兵役の短縮や廃止を求める立場ということになる。また軍事的緊張感や国際政治の如何によって、軍備の議論のトーンはちがってくるだろう。

それにしても、彼も若い時に兵役に行っている。息子がまた兵役に行くことに対してもそれほど違和感なく受け止めていると思える。その感覚があるために、日本の自衛隊を軍隊としてごく自然に認識してしまうのだろう。

一方、われわれにとって『兵役』とか『軍隊』というと、厳しい韓国の徴兵制の話や、沖縄のアメリカ兵といったような『外国』の話を思い浮かべる。そうでなければ、過去の日本の軍隊を想像する。昨今ドイツの兵役拒否の若者が日本の福祉施設で働くというケースも出てきているが、それにしてもドイツの『兵役拒否』も基本的には外国の話だ。

つまり、今のわれわれにとって生活の中で『兵役』という言葉に現実味を持っていないということがいえるだろう。

その昔、『戦争を知らない子供たち』というフォークソングがあったが、そんな歌が出てくる時代は、軍隊のリアリティがまだ社会のどこかで残っていた証拠だ。また一般にこの手の議論には『戦争体験』という大きな軸があった。

今は『戦争体験者』もどんどん減り、この歌を歌っていた世代も『高齢者』の仲間入りをしている時代にはいっている。そして、兵役もない。

そんな日本で軍隊や徴兵制の議論は、反対する側も賛成する側も、与党になったことのない野党のような状態になってきているのだと思う。

もちろん、リアリティや体験があればよいか、ということではない。それにしてもドイツで兵役がごく普通の感覚であるのを見ると、日本の議論の前提条件の違いがかえって見えてくるののである。(了)


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