■いちおう賛成なんだけど・・・
先日、ドイツ滞在の日本人の方と話すことがあった。仮にYさんとしておこうか。
Yさんはドイツ滞在の日本人ビジネスマンとも普段からお付き合いがある。そのお付き合いの中で、ドイツの労働スタイルは家族の時間をきちんと確保できるのがいい、という議論が出てくるらしい。そして、日本人ビジネスマンのみなさんは一同に賛成するのだが、どうもそれは上辺だけのようだとのことだった。
ドイツの労働スタイルはプライベートと仕事の切り分けがはっきりしているのはよいが、『仕事』のサイドからみれば、融通は効かないし、スピードに欠けるという面がある。その点『仕事人』としては日本に比べてやりにくいところも多いのだろう。
加えて、多くの在独日本人ビジネスマンは数年で帰国することが前提になっている。ドイツ滞在は腰かけだ。ドイツ滞在中はのんびりできるが、日本に戻ると、否応なしに日本式になってしまう。
そんなことからドイツのライフスタイルを自分のものとして受け取るのが難しいのだろう。まあ、当然といえば当然だ。
■家族幻想
それにしても、日本人ビジネスマンがドイツのスタイルになじみにくいのかと考えたときにもうひとつ理由があるように思える。
それは、『家族と過ごす時間』といっても何をしたらよいのか、ということが難しい部分があるのではないだろうか。たとえば父と息子が一緒に何かするといえばキャッチボールをする姿が描かれることがあるが、キャッチボールばかりするわけにもいかない。
一日、二日はなんとかなるだろうが、突然、家族と2週間過ごしましょうということになると案外戸惑うことが多いのではないだろうか。初めてのデートしたときに、どのように時間を持たせるといいか迷った記憶のある人は少なくないと思うが、結局、家族との時間もそれと似ているのかもしれない。
まあ、日本もひょっとして、今よりももう少しのんびりしていた時代は、家族で夕食をとり、毎日のうちで家族が同じ時間を過ごす時間があったのかもしれない。ただ、その頃のお父さんといえば一家の主(あるじ)だったから『父には怖くて近づけなかった』『父とはあまり話した記憶がない』といったケースがけっこうあると思う。
それに対して、ドイツの場合、キリスト教的な『愛』で結ばれた家族幻想が明確にあった。さらに19世紀の産業化が進む時代に、核家族化が進み、いわゆる勤め人が増える。ホワイトカラーは貴族にあった家族のスタイルを真似し、ブルーカラーはホワイトカラーを真似した。
つまり、身も蓋もない言い方をすれば、働かなくてもよいような階層のライフスタイルをある種の理想とし、家族幻想として共有化していったといえるだろう。だからこそ、『家族と過ごす時間』というのが当たり前のようにある。長期休暇をとって家族で過ごす行為などはわかりやすい例で、これがないと、生きている意味がないといわんばかりの雰囲気がある。そして労働組合が強いのはその裏返しともいえるだろう。
■急がばまわれ
ひるがえって日本ではかつて、時間的に余裕もあった時代もあったのかもしれないが、ドイツのような家族幻想はできなかった。
そうこうしているうちに戦後の高度経済成長期を迎える。労働者不足を補うために、結局『お父さん』が長時間働くことになり、『お母さん』が子供の世話と年老いた親の介護をするというかたちになった。経済は成長するは、福祉は個人(お母さん)がしてくれるは、というのでこの時期の日本の財政はかなり余裕があった。ドイツも50年代に経済復興を成し遂げたが、労働者不足は外国人労働者を迎えいれて補った。このツケの部分は今に至るが、とにかく法整備なども行われ、家族幻想は守れた。
忙しくなった日本は、『家族と過ごす時間』は物理的にも優先順位が低くなり、『家族との過ごし方』も発達しなかったといえるかもしれない。せいぜい出てきたのは『友達家族』ぐらいで、かつての大家族も弱まっていく。強靭な(核)家族幻想もないうえに極端な個人主義で家族の相対化につながった。
こういったことが日本の家族問題の経緯の全体像だろう。その反省からワーク
アンド ライフバランスという概念が労務分野を中心に議論がなされて久しいし、『家族との時間を持つ』という主張に対して、在独の日本人ビジネスマンがそうであるように賛成する人のほうが多いと思う。
また日本に住んでいる友人・知人を見ても家族との時間を必要と考えているように思う。そして子供の寝顔をみると『ほっとする』『癒される』といったように、家族がいることの良さとか、喜びも十分に知っている。
しかしながら、ドイツに比べて『家族とは一緒に過ごすもの』という社会的な幻想が今も弱いと思う。かといって欧州的な家族幻想をつくりだすのは難しい。
ただ、昨今の経済恐慌や自由市場経済の強まりをみると、『家族との時間』を確保できる環境を作り出すことは案外『急がばまわれ』で有効かもしれない。これによって、人権の質を高め、社会的安定性を創出する可能性が考えられるからだ。かつて『経済は一流』といわれた日本が目指すべき次のステージかもしれない。(了)
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