ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2009年9月19日



時代鏡としての大統領


時の最高権力を見てみると、世界潮流のようなものが見えてくるように思える。時代鏡としての大統領について書いておきたい。

ニューノーマル『オバマ』
サード・カルチャー・キッズ(TCK)という概念がある。親の転勤などで子供時代や思春期を母国以外の文化圏で過ごした子供のことを指す。提唱されたのが1960年代と、古いといえば古いが、グローバリゼーションという時代を見るときに、参考になる概念だと思う。また、実際そういうケースが増えているのではないだろうか。グローバル時代のノマド(遊牧民)だ。

そんなTCKがついに大統領になった。バラク・オバマがその人である。彼はハワイで生まれた。実父はケニア出身、母はカンザス州の白人女性である。有色人種の大統領、アフリカ系アメリカ人の大統領、といったイメージが強いが、DNAのいたずらでもし母親に近い容姿になっていれば、また違った展開になっていただろう。

母親は離婚後、再婚するが、新しい父親はインドネシアの人であった。そして、子供時代にインドネシアで過ごし、10歳のときにアメリカにもどって祖父母に育てられた。

そういった出自を見ると、人格形成時期に受けた文化的影響はかなり複雑だ。『サード・カルチャー・キッズ』はネガティブにいえば、文化が複雑に交錯するためアイデンティティの確立に困難が伴うことがある。ポジティブにいえば現状に対して適合する能力が高まる。

面白いのは、アメリカのいくつかのメディアでもサード・カルチャー・キッズとオバマのことを論じたものが散見されることだ。ある地方のニュースサイトに掲載された講演会の告知では、オバマやTCKのことを『ニューノーマル』と表現していたりする。講演の題名なので少々大げさになっているのだとは思うが、それにしても、彼の出自と今の時代を考えると、オバマはグローバリゼーションの時代の大統領として登場すべくして登場したと思えてくる。

ラブ&ピースのクリントン
一方、大統領になりそこねたヒラリー・クリントンは夫のビルとともに元々はリベラルだった。手っ取り早くいえば、国家に対して反戦運動などをしていたステューデント・パワー時代の世代である。若いころのクリントン夫妻の写真なんかを見ると、いかにもラブ&ピースと言いだしそうな雰囲気がある。ちなみにこの『ラブ』とは性の解放を示すが、ビル・クリントンは大統領時代に実践してしまったといったところだろうか。

リベラルを象徴するもののひとつがヒラリーの姓だろう。長きにわたり、ヒラリー・ローダム・クリントンと元の姓を入れて名乗っていた。ちなみにドイツも結婚前の自分の姓と配偶者の姓をくっつけて名乗る二重姓を使えるが、学生運動などが盛んだった『68世代』と呼ばれる世代に多い。

また大統領の妻というと、クッキーを焼き、子供を育てるという主婦のロールモデルを期待されるわけだが、よく知られるようにヒラリー・ローダム・クリントンは『職業婦人』のファーストレディだった。

以上のことからいえば、ビル・クリントン大統領の登場は国家に異議申し立てしていた世代が政権をとったという象徴というふうに見える。

ドイツの政権を見ても同様で、1999年にゲアハルト・シュレーダーが首相になり、ヨシカ・フィッシャーが外務大臣になった。どちらも世代的には68世代だ。そしてこの世代が作ったといってもよい『緑の党』が連立とはいえ与党になった政権だった。加えてフィッシャーは緑の党の党員で、ある州の環境大臣になった経験もあるが、その就任のときには運動靴で登場したため『運動靴大臣』というニックネームまでついた。

時代鏡としての大統領
アメリカの話にもどると、ビル・クリントンのあとはその反動か、カウボーイのジョージ・ブッシュが大統領になった。そしてグローバリゼーションの『ニューノーマル』のオバマが登場したわけである。こういった三代の大統領を見 ると、

 ・確固たる国家に対して異議を唱えた世代が政権(クリントン)
 ・確固たる国家の再建のための保守?(ブッシュ)
 ・グローバル時代の国家(オバマ)

という時代の移り変わりが重ねて見えてくる。

ヒラリー・クリントンはオバマに敗れたわけだが、国家への異議申し立てやステューデント・パワーといったものよりも、『ニューノーマル』のほうが時代の要請であったということになるか。

ドイツのほうは、シュレーダーの次はアンゲラ・メルケルが首相になった。彼女は旧東ドイツ出身だ。もちろんドイツ国内を見ると統一後の問題はまだまだあるが、『冷戦時代はとっくに昔の話よ』ということを宣言するかのような時代の鏡である。

グローバル時代の日本という国家
最後に、時代鏡として、鳩山首相を見たときにどうかを考えてみたい。
鳩山氏の政治理念は友愛だが、これはヨーロッパに端を発する普遍的な価値観である。それ以前の自民党政府の政治と大きく異なる点だ。

というのも、自民党といえば利益配分機能が圧倒的に強く、国家のための理念らしい理念を見出すことはほとんどできなかった。『国益、国益』といってもどこか抜けた印象がぬぐえなかったのもそのせいだと思う。そういう点ではようやく世界に通じる理念を掲げた政治家が政権の座についたといえよう。

よく知られるように、日本は西洋から急速に様々な技術やモノ、概念を輸入して近代化を図った。友愛も翻訳概念のひとつだ。翻訳概念を大量に持ち込むと、その言葉の成り立ちや西洋の社会の中での文脈を十分に顧みることなく先鋭的に走りやすい。近代国家への変貌を遂げられたのはそのおかげともいえよう。

そういう日本の歴史を鑑みながら鳩山首相について、こんなことがいえると思う。

 ・国内的にみれば、明治以来の『翻訳近代』
  とでもいえる『友愛』が政権の俎上に載った
 ・普遍的な理念が政権に含まれることで近代
  国家の輪郭を再検討が可能

もちろん、鳩山政権も政局や霞が関にもまれることになるだろし、そういう現実と対峙しなければならない。それにしても、友愛という古くて、普遍的とされる理念はグローバル時代の国際政治の中で一定の価値があるといえるし、国家としての存在感を打ち出せる可能性もあると思う。(了)



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