ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2009年9月9日



日本(語)製がなぜ増えない?


ドイツに住まいしていると、日本の日本語の世界が奇妙に感じることがある。世界の中で日本を日本語でどう表現していくか、ということを視野にいれて、少し書いてみたい。


かっこよさの演出
数年前から息子は『○×レンジャー』の類にはまっており、私も一緒に見ることがある。私の年代だと元祖戦隊モノといわれる『ゴレンジャー』を見ているので、その変遷に驚かされる。とりわけ言葉という面から驚かされたのが、2004年2月から1年間放送された『特捜戦隊デカレンジャー』だ。

デカレンジャーとは刑事(デカ)と掛け合わせたと思われる名称で、毎回、宇宙警察のデカレンジャーが地球で犯罪を起こす宇宙人(?)を捕まえるというお話だ。

驚くのが英語の多用だ。
かっこよさを造形していくために使われているのだと思うが、上官の命令には『 Roger 』とか『 Sir,YesSir! 』と答える。デカレンジャーが犯罪者(宇宙人?)に対して宇宙最高裁判所に即決裁判の要請を出すが、その時には 『 judgment 』 というアナウンスが入り、有罪と決まると 『 delete 許可 』が降りる。そして毎回めでたく悪は裁かれるのだが、最後のデカレンジャーの決め台詞が 『 これにて一件complete 』である。

確かに私の子供時代の正義のヒーローたちも英語を用いることがあった。程度の差といえばそれまでだが、デカレンジャーの英語の多用には驚いた。『これにて一件 complete 』というセリフを無邪気に喋る宇宙警察のお兄さんには、見ていてこっちが気恥ずかしくなる。わが家にとっては、日本のテレビ番組は日本語学習の一環というふうにも位置づけているので、こういう使い方をされると、とても困るのだ。

もっとも、『かっこよさの演出のための英語』ということでは他にもいくつか思いつく。たとえばFMラジオなどでは日本語が話せる英語のネイティブ、あるいは英語が堪能な日本人がDJとして登場することがある。DJ氏はリスナーの日本語のはがきを読みあげ、コメントを日本語でするが、曲を流すときになって、いきなり流暢な英語で紹介する。昔、小林克也さんが『ベストヒットUSA』という番組をやっていたが、あのスタイルだ。

また、バブルの頃のTVコマーシャルなんかも、意味もなく最後にフランス語のナレーションを入れるなど、ゴージャスさを演出するのに外国語が使われた。

みっともない、あやかり命名
われわれの言葉に対する感覚についていえば、外来語を有難がったり、特別な価値をつけて使用する傾向が強い。

それゆえに、『かっこよさ』とか『アメリカの雰囲気の演出』といったように飾り付けとして使われるわけだが、考えようによってはまだかわいらしいもので、それに以上に『みっともないなあ』と思う使われかたがある。たとえば、川が流れる美しい町を『日本のベニス』と表現したり、国内で行われる自転車競技に『ツール・ド・○×』といったような命名をするケースだ。

そもそも日本では昔から『小京都』とか『ナントカ銀座』といったように、その名にあやかるパターンの使い方がある。おそらくその感覚で『日本のベニス』とか『ツール・ド・○×』といった使われかたが登場するのであろう。

百歩譲って日本国内の名所にあやかる分にはまだいいが、『日本のベニス』はいかにも誇りが感じられず、もみっともない。少なくとも私は自分が住まいしているドイツの人々にこの類のものを紹介するには、大きなためらいがある。またドイツの人々はバンベルクなどの歴史ある町を絶対に『ドイツのキョート』などとは言うことはないだろう。

外国人の言葉
最後に、もっとも『ナサケナイ』と感じるパターンが外国の言論人による評価を取りあげるケースだ。近年ではマンガをはじめとする日本のサブカルチャーが世界的に広がった。政府もクール・ジャパンとして今や霞が関のお役人たちも使っていると思われる。

このクール・ジャパンに多大な影響を与えたのがアメリカ人ジャーナリスト、ダグラス・マックグレイ氏がFOREIGNPOLICYに発表した論文 “Japan’s Gross National Cool” であろう。GNPという経済指標ではなく、GNCというクールさ(ソフトパワー)の指標で日本を見るというわけだ。

日本について、外国のジャーナリストや学者が注目し、様々な見方を提示してくれるというのは、基本的に私はいいことだと思う。そしてそれは日本国内の言論でも大きな刺激になる。その点ではGNCというとらえ方は面白い。

しかしながら、別の見方をすれば日本の強みや存在感を表現する言葉を持っていないともいえるのではないか。

これはまた聞きなのだが、あるドイツ人の日本研究者が日本のサブカルチャーについて講演を行った。その時に『クールジャパン』や『GNC』のことも話題に上がったそうだが、くだんの研究者は『もっとも、これはアメリカ人のジャーナリストがつけたものですが』といった類のコメントをしっかり挟んだそうだ。

対『世間』から『世間外へ』
以上のような状況をみると、私はもう少し日本(語)製の言語活動が増えるべきだと思う。それは誇りやアイデンティティを確固たるものにするため、ということに関わってくるということもあるが、それ以上にグローバリゼーションの時代ではもう少し普遍性のある表現が必要だと思うからだ。

そもそも俳句や短歌などの文芸の分野から商品広告のコピーに至るまでを見ると、われわれには言語を操る能力はある。見えないものを見出すような繊細で豊かな言葉の組み合わせを行う技術や感性を持ち合わせている。ただ、これらは日本という世間の中で流通することが前提になっている。

同じく『飾りとしての外国語』も『あやかり命名』も実は日本という世間に対して使われているものだ。そう考えると、外国人による日本評も『日本の世間外』の人の発想を世間の中で面白がっているという構造に思えてくる。

では日本という世間以外でも通じる言語表現というのはどのようなものだろうか。基本的な方向としては、日本(語)製の言語表現、すなわち日本語で日本を表現していくことだと思うが、日本政府観光局のキャンペーン 『 Yokoso! JAPAN 』 のように、日本語をアルファベットで書けばよい、ということではない。

理想をいえば、日本語で日本を表現し、それがどんな言葉に翻訳しても、『なるほど』と思わせるものだ。つまり論証的な表現ということになるだろうか。

だが、これは、なかなか難しいことだ。しかし、こういった方向性を少し意識するだけで、日本の存在感をより明確に表現できるように思う。(了)


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