■『甘え』と『思いやり』
ある教授がドイツの人々には共感する力が著しく低いということを指摘した。『共感』というとわかりにくいが、相手のことを思いやるという言い方をするとよいだろうか。いわれてみると、確かにドイツに住んでいて、思い当たる節はいろいろある。
有名な日本文化論のなかで『甘え』という概念がある。これは相手の思いやりを誘おうとする行為であり、そして思いやりでもって『甘え』が受け止められる。そんな構造を指しているといえよう。
もっとも『「縮み」志向の日本人』(李御寧・著)によると、韓国にはオムサルというものがあるという。自分の被害などをわざと大袈裟に表現する行為で、『単なる甘えよりずっと複雑だ』という。
そういえば時々、なんらかの被害にあった韓国の人が道端で座り込んで、手を振り、声を上げて泣きながら抗議をする姿がテレビで見かけることがあるが、あれがオムサルの一つの形なのだろうか。韓国の感情表現とその受取方について、実際どのようなものか私にはわからないが、同書を読んだ限りでは、オムサルも相手の共感を得るためのものではないかと思えた。
『甘え』という概念は西欧社会に対して日本社会はどうか、ということを考察する構造が基本になっているが、これに準じると、『甘え』のない(ということになっている)西洋社会は相手の思いやりを誘う行為も少ないということになるのかもしれない。
■権利社会のドイツ
日本から見ると、西洋は対立を恐れず、公平で活発な言論空間がある社会に見えるが、このような理解で西洋社会を見ると、確かに『甘え』と『思いやり』が入る余地がないように思える。
一般に人間集団というのはある程度、欲求を提示し、それを受け取る行為がワンセットになっていないと立ち行かなくなる。そう考えると『甘え』はひとつの欲求を提示する方法で、『思いやり』によってその欲求を受け取るというかたちが日本(や韓国)で成り立っているのかもしれない。
ここで『甘え』と『思いやり』がない国としてドイツを見てみると、浮かび上がってくるのが、労働組合をはじめとする権利の概念化が豊富で、権利と権利をぶつけあう姿である。
こんなドイツは権利と権利が錯綜しあって、膠着してしまうということがおこり、ドイツの知識人も『ドイツのまずいところ』として挙げることがしばしばある。しかし例えば労働組合を見ると、慈悲のない経営者に思いやりは期待できない。そこで労働者の権利を概念化してぶつけるしかない。そんなかたちがあるように思えるのだ。
そんな権利欲求のかたちと親和性があるのが『社会的』という概念だ。ひらたくいえば、人々は皆対等の立場で、困っている人には皆で助け合いましょうという考え方で、ドイツの社会保障などの基本的なかたちを作っている。
そのため上から降りてくる『お助け』は『福祉』であって、『社会的』ではないというはっきりとした切り分けが理屈上ある。この見方からいえば『福祉』は『お上の思いやり』というふうに見えてくる。
横道にそれるが、そういえば『思いやり予算』という予算があった。日本側による在日米軍駐留経費負担のことをさすが、当時、円高ドル安などによってアメリカの負担が増した。それを考えてできた予算だが、なんとも日本らしい。水面下での交渉はどうだったのかはわからないが、とにかく日本のメディアでは『思いやり』がキーワードでとりあえず成り立った不思議な予算である。
ひるがえって、ドイツは社会保障が充実していて、労働組合が強いために短時間労働が実現している国。そんなふうに描写されることがしばしばあるが、これは『甘え』と『思いやり』がないことが一つの理由になっているのかもしれない。(了)
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