ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2007年9月18日



大阪改造計画─ダンスとロボット

関西人の私にとって、大阪のお笑いやベタな感覚は愛すべきところである。また文化の蓄積もある。ところがその扱いが洗練できていない。私は大阪を常にウォッチングしているわけではないので誤解もあるかもしれないが、大阪をかっこよくする方法を考えてみた。


大阪の知らざれる姿
当サイトの『インターローカルニュース』で先般、大阪の文化について少し触れた。詳しくはそちらをご覧いただくとして、ドイツの自治体の様子からいえばもったいないことしているなあ、と感じることがある。

大阪は知る人ぞ知るコンテンポラリー・ダンスの街でもある。『コンテンポラリー・ダンスってなんやねん』とおっしゃる方もいると思うので少し説明する。

とはいっても実のところ正確な定義はないのだが、基本的なところをおさえよう。まずは、あくまでもアーティストが舞台などで踊り、人に見せるダンスである。社交ダンスやディスコのように自分で踊ることで楽しむダンスではない。それからコンテンポラリー(contemporary)を直訳すると 「現代的」とか「同時代の」ということになるが、ここではダンス・アーティストが創作する同時代の舞踊芸術ぐらいの理解でよいと思う。

大阪というとベタな吉本のお笑いとか、文楽などの伝統芸能の文楽などが有名だが、実は90年代半ばからダンス・ボックスというコンテンポラリーダンスのプログラムがあり、若手のダンスアーティストの育成に一役も二役も買っていた。2002年にNPO化してからは地域社会との関係を強化した活動なども展開。コンテンポラリーダンスの世界のみならず、芸術系のNPOとしてもよく知られるようになった。

こうした動きの中でアジアのコンテンポラリー・ダンスのフェスティバルが開催されている。国内的にも国際的にも大阪はコンテンポラリー・ダンスの拠点といってもよい存在感を見せていた。

自治体と文化
さて私が住むドイツの自治体に目を転じる。日本とは法のあり方や自治体の構造、社会の価値観などかなり異なるので、比較は難しいのだが、単純にいえば、ドイツの自治体は文化や芸術を自治体運営の中で不可欠な要素としている。

だから文化や芸術は政治的にも重要な案件となる。日本で政治というと永田町の『政局』とごっちゃにしたイメージがあるが、ここで言う政治とは自治体運営の戦略という理解である。

たとえば私が住むエアランゲンでは毎年『詩人の祭典』という文学フェスティバルが行われる。エアランゲンの人口は10万人程度だが、市街地には文学フェスティバルのムードが充満し、地元紙には連日フェスティバルの記事が躍る。こんな具合だとアートに関心のない人でも、わが街の『文化力』を感じざるを得ないわけだ。

逆にいえば、フェスティバルはその街の文化的な雰囲気を生み出し、市民の生活の質を支えるものだ。日本社会においては『生活の質』と『文化』の関連は理解しづらいが、ドイツの都市にとって文化は欠かせないものだ。そのため企業誘致のための条件にすらなる。だから外向けにつくられる企業誘致のパンフレットには必ずフェスティバルの写真が掲載され、文化の高さをアピールという文脈で作られる。

厚かましい?ドイツの街
同時に文化や芸術は街のイメージも醸成していく。エアランゲンの場合、一等先に使われるのは『メディカル・シティ』だ。医療先端技術開発が強いことを主張しているわけだが都市とはさまざまな顔を持つ。エアランゲンは毎年行う『詩人の祭典』をつかって『文学の街』でもあると、ぬけぬけと言ってのける。

文学なんてヘタすると、好事家のものというような側面すらあるが、『詩人の祭典』はディ・ツァイトといった高級全国紙─インテリが読む全国紙に広告を載せている。10万人というと日本でもざらにある都市だが、その存在はインテリ層の目に留まる。医療先端技術だけじゃなくて芸術を愛する都市でもあるのだ、ということがアピールできているのである。

日本社会においては『生活の質』と『文化』の関連は理解しづらいと書いたが、ドイツにあってはハイクラスの人にとって文化は欠かせないものである。ハイクラスの人材にとって先端技術だけの街とはいかにも田舎くさく見えるのではないか。

キリっとしておくれやす
さて、大阪の話にもどろう。
大阪が自治体運営のOS(オペレーションシステム)に文化・芸術は不可欠と考えていれば、ダンスボックスといったプログラムはもっと政策的に支援すべきものとなっていたのではないか。支援した上でドイツ流に『大阪はコンテンポラリーダンスの街』とずうずうしく言ってのけてもよい。

具体的なダンスのプログラムの運営は『専門家』であるダンスボックスに任せるべきだが、それを踏まえて大阪が自ら『コンテンポラリー・ダンスの街』といい続けると、少なくともダンスやパフォーマンスに関心のある人たちにとっては世界中で大阪は特別な街になる。

またこんな展開も考えられる。
大阪といえば『ロボット・シティ』としても力を入れている。コンテンポラリー・ダンスといえば身体の現代芸術と読み直してもよいと思うが、先端ロボット技術と身体の現代芸術家(ダンスアーティスト)が一緒にできる実験的なプロジェクトなんてこともやる価値がある。

数年前、子供と一緒に大阪城へ行ったところ『ロボット焼』(=写真)なるものが売られているのを見つけて、唖然としてしまったがダンスとロボットを組み合わせるほうが、絶対にかっこいい。

ロボット焼などはしゃれで作る分には面白いが、おそらく、しゃれではあるまい。いや、しゃれのつもりだとしても、既存の大阪のベタな感覚を前面にだきすぎて面白くもなんともない。ロボットをアピールするのに設定している対象の民度がいかにも低い。

それよりもロボット技術とコンテンポラリー・ダンスの共同プロジェクトを毎年やるとしよう。アート、特に現代芸術とは社会的に見れば、その社会のイノベーティブな感覚や潜在力の発露ということもある。そう考えるとコンテンポラリー・ダンスとロボット先端技術との相性もまんざらではないのではないか。

この両者を組み合わせたプロジェクトを10年も積み重ねると、大阪のイノベーションのポテンシャルとかセンスを表現するものになるだろう。大阪の中にあるものと関連させることでできてくる『都市の横顔』は説得力があるはずだ。

ベタな感覚やお笑いを大阪のアイデンティティとするのもよいが、キリっとしたかっこいい横顔もほしいものである。(了)

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