■生活の中の『手』
パソコンを使いだしてから、手書きで文章を書くことがめっきり減ったという人は少なくないだろう。その反動で万年筆に静かなブームもあるとも聞く。実は私も万年筆を手放さないようにしている。使う機会はそれほどないのだが、手書きという行為がなくなることに漠然と不安があるのだ。だから万年筆は手書きの最後のとりでを象徴する役割もあるのかもしれない。だいたい自分の手を見ても昔はペンだこがあったが、今はもうない。むしろパソコンのキーボードの文字がところどころはげている。
いつぞやIT関連の企業で働くドイツ人の友人が、日本語コンテンツを扱わねばならないとかで助っ人に行った。必要な書類にサインをするときになって万年筆をさっと出すと、友人も『おおっ、ヘイゾーも持ってるのか。俺もだ』といって自分の万年筆を嬉しそうに見せてくれた。一瞬にして共感を持った。
そんな不安が親の立場になると、できるだけ生活の中の『手』の力を子供に見せるようにしようと考えることになる。『親子の手作りおもちゃ作りイベント』の類に参加するのもいいが、日常生活で『手』の力を使うことがポイントだ。
たとえばドイツの冬は雪が降るので、毎年秋が終わるころに冬用のタイヤに交換せねばならない。我が家も最初は自動車屋さんへ持っていって交換してもらっていたが、数年前から自分で交換するようにした。これには自動車維持費の削減の意味もあるのだが、それにしても子供たちは興味津々。手が汚れるのもいとわず大きなネジなどを触ったりする。
あるいは、鉛筆をカッターナイフで削ると、『えーっ、鉛筆ってナイフで削れるの!』と子供たちは驚き、目を輝かせて私の手元をのぞきこんだ。最近は面白がって、よく自分たちで削っている。自転車のパンク修理などはいうまでもない。
ただドイツはまだまだ自分であれこれ手作業で行う生活習慣がけっこうあり、今もタイヤ交換を自分でする人は多い。また借家であれば家の照明器具はすべて自前。入居時にはとりつける。出るときは再びはずして、その上、壁を真っ白にしなければならない。自宅を購入した人になると、自分であれこれさわるので地下室においてある工具の類はけっこうな数になる。休暇の時には『改装』といったほうがいいような作業を愉しそうにする人もいるのだ。女性でもペンキ塗りや壁紙貼りの名人がけっこういる。
こんな具合であるから、ドイツの人たちは子供の時から家を自分の手できれいにしていくのを見る機会が多い。ドイツのホームセンターへ行くと家が一軒自分で建てられるのではないかと思えるほど、素材や機材がそろっている。OBIという有名なホームセンターがあるが、ここなどはサッカーなどの公式スポンサーの常連だ。DIY(Do
It Yourself)市場の大きさがうかがえる。
■高い利便性と低い耐久性
さて、最新の技術に対して実は陳腐化の早さや耐久性の低さを感じている。パソコンもすでに何度も買い換えたし、プリンターなどはインクをたくさん購入したものの、機械のほうが先に壊れて、どうしようもなくなったこともある。
CDなども実は耐久性が低い。4種類ほどの素材で作られているために化学反応をおこしてしまうのだ。実際にラジオ局などでは長期保存のメディアとは見ていない。ドイツの国立音楽アーカイブは昔のレコードなどをコレクションしており順次、音楽をデジタル・データ化している。その優先順位は昔のレコードよりも実はCDなどの光学メディアのほうにおいている。
それから昨年は我が家の自動車もよく壊れたがほとんど電子部品だったが、電子部品といえば、ドイツでこんなエピソードもある。冷戦構造が崩壊して、チェコなどの東欧からの技術者もドイツに流れてきたが、あるドイツの会社が機器の修理を請け負って、東欧出身の技術者を派遣した。が、なかなか技術者が帰ってこない。そこで、会社は電話をかけた。『ウチの技術者はもう修理を終えましたか?』『いえ、まだがんばって分解して、修理してらっしゃいますよ』。
機器の修理とは部品をまるごとかえるだけというのが今のやり方だが、東欧の技術者にとっては壊れた部品そのものをなおすのが『修理』だったわけだ。
いずれにせよ、今の様子を見ているとシリコン世代の子供たちは高い利便性と低い耐久性という機材に囲まれて大きくなるということだ。そして私たちは生活の中の『手』を失うことにまだ漠然と不安をおぼえるが、生まれたときからパソコンのある環境で育つ子供たちは大人になってもこの種の不安はないかもしれない。
それだけにこの世代のモノとカネの感覚はわれわれと異なってくるのは明白だ。どんな文化を生み出すかという点では楽しみもあるが、一抹の不安はぬぐえない。もっともこういう感情は常に上の世代が下の世代に対してもっているものであろうが、親という立場になると、つい意識的にカッターで鉛筆を削って子供に見せ、自動車のタイヤ交換もがんばって自分でするのであった。(了)
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