ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2006年11月28日



 発言予約!


コミュニケーションといったときに、日本に比べるとドイツ社会では言葉を積み重ねていく手続きがきっちりしているのが特徴。そんな社会でわが家の夕食は時々おかしなことがおこる。

※この記事はメールマガジン『ドイツ発 わが輩は主夫である』(2006年11月28日付) に執筆したものです。


■滑稽な夕食
夕食時に『早く食べなさい』と子供に促したことのある人は多いであろう。逆に子供のときに親から促された記憶のある人も多いのではないか。

わが家でも食卓で何度も『早く食べなさい』といわねばならないことがある。その理由は右手を挙げているからだ。

右手を挙げているのは、発言の予約のためである。
例えば長女が学校でのことを話しはじめて、それに対して次女も自分のことが話したくなる。子供のことである。話しはじめると一人の発言が終わるまでにどんどん話そうとする。そうなりはじめると、妻がそれを制する。すると『メルデン!(意訳すると「発言予約!」)』と言いながら手を挙げるというわけだ。

日本からみるとやや滑稽に見えるが、いや、料理を前に右手をあげているので、当然食べることができなくなるので、実際滑稽といえば滑稽だ。

私や妻は手を挙げた順番を間違えないように『はい、次』と裁いて、発言を許可していくわけだが、一番下の長男になってくると、発言予約すること自体が楽しいようで、発言内容は『ねえ、知ってる?』というドイツ語の小さな子供の常套句ではじまり、どうでもよい話をする。こうなってくると、発言予約が過密になり、硬直してくる。それで『話しはあとで、まず食べなさい』と促すことになるわけだ。


■コミュニケーションの手続き
いずれにせよ、これは人の話をきちんときかねばならないという態度が底辺にある。だから食卓で私と妻が話しているても、そこへ子供が割り込もうとすると『話が終わってからにしなさい』と制する。そして話が終われば『はい、何かな?』と改めて話をするわけだ。

子供たちが通う幼稚園でも『イス・サークル』というプログラムがある。これは一定の期間、教室からおもちゃを地下室へ追い出すというものだが、どのおもちゃを教室から追い出すか、イスを円形に並べて2週間かけて話し合う。それから、おもちゃを教室へ戻すときもやはり 2 週間かけて話あう。当然のことながら気に入ったおもちゃは子供によって違う。だからこそ話し合いの論点が生じるわけだ。

話し方も訓練する。
ある先生によると、ドイツの小学校は4年生までなのだが、日本の5年生に相当する段階ではドイツ語の時間に『学習のための学習』を行うという。その中で議論のすすめかたを学ぶそうだ。相手の顔を見る。相手の話をきいてから自分の話をする。自分の言いたいことを整理してから発言する。一番重要なことを最後にもってくるといった基本ルールを学ぶ。

政府の審議会などの会議では人々は言いっぱなし、著しく効率が悪い。議長の許可を得てから発言するというルールができるまで1年もかかったという話を読んだことがある。審議会といえば一応、知識人やそれなりの社会的地位のある人がメンバーだと思われるが、なんともため息の出る話である。日本の国会に野次が多いが、これも『話すこと』『聞くこと』に関するプロトコル(手続き)が広く共有されていないところにあるのだろう。


■みんな分かってる?
もちろん、こういった日本の様子は言語と文化を見る必要もある。

興味深い考え方で、コミュニケーションについて『高文脈コミュニケーション』『低文脈コミュニケーション』と分類したアメリカの学者がいる。

かの学者によると日本は『高文化コミュニケーション』と分類されている。簡単にいえば情報共有をしている割合が多いということである。日本で『阿吽(あうん)の呼吸』があったり『察すること』の能力の高い人が多いのは、皆の基本的な了解範囲が高いからできることだ。きめ細かい日本のサービス、時には過剰すぎるサービスもこうした文化背景が反映されているのだろう。

『阿吽(あうん)の呼吸』を醸成するたために企業などでは『飲みニケーション』があったし、かつて盛んに行われていた社内旅行やスポーツ行事などは情報の高い共有化を保つことにつながっていた。また会社でなくとも集落の意思決定などは一晩中かかって、なんとなく決まるということがあったそうだ。阿吽(あうん)の呼吸や察しで成り立つ共同体では対話の手続きはおろか、主述を明確にする必要もあまりないということだろう。

それに対して、ドイツなどは基本的な了解範囲が『低文脈コミュニケーション』ということになる。そのため主語述語をはっきりさせ、きちんと話を聞くことが必要だというわけだ。だから感情的に話すことをかなり忌避しているし、子供にもそれをずいぶん教え込む。


■冷静な抗議
ドイツのコミュニケーションのスタイルは抗議という行動でもよくわかる。たとえば共同住宅で隣人がうるさい場合も感情的にならずに抗議できるし、場合によれば家主を通して、抗議の手紙を送ってもらうということもできる。『うるさい』というだけで、他の隣人たちの賛同が集まれば警察を通して抗議することも可能だ。

日本のアパートなどで抗議という行動に出るときは感情が表に出ることが多いであろうし、今のご時世、抗議をすると逆上して殺されてしまうリスクもある。昨年、『騒音おばさん』なる奈良のご婦人のことがニュースになっていたようだが、ドイツだったら問題はもっと早く解決したのではないかと思える。

しかし、よくよく考えると、こうなるのも当然で、日本では言語による冷静なコミュニケーションの訓練をすることはドイツほどないし、そのくせ『察しあい』を高めるような従来の共同体はすでに崩壊している。コミュニケーションの手段に感情を爆発させることしか術がないのだ。いじめも昔からあったが、ここ十数年のものは、共同体をベースにした人間関係が崩れていく一方で、それに代わる人間関係の様式のようなものを開発をしてこなかったことが遠因になっているように思えてしかたがない。

ドイツの話にもどると、実はわが家の隣人にも平日でも深夜まで騒ぐ困った若者が住んでいたことがある。抗議するとしばらくは静かにしているのだが、そのうちに、いかにも頭の悪そうな彼の友人たちがやってきて夜中までパーティだ。この隣人は知性をあまり感じることのない若者であったが、抗議すると殺される危険を感じるということはこれっぽっちもなかった。そして日常的には顔をあわせるときちんと挨拶もした。こんな若者でもドイツ式のコミュニケーションのプロトコル(手続き)は持っていたわけだ。

いずれにせよ、今の日本ではかつての『高文脈』のコミュニケーションを維持することが難しくなってきているし、民主制がきちんと機能するにはコミュニケーションの手続きの共有化から見直すべきだと思える。また、グローバル化で別の文化背景の人と話すためには、言語はより機能的に使う必要がある。

今回は話があれこれ飛んでしまったが、わが家も時々、誕生パーティにどうするか、クリスマスをどう過ごすか、といった他愛もないテーマについて、家族会議をすることがある。ただし、幼稚園でやるような『イス・サークル』ではなく『ザブトン・サークル』、車座である。(了)

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