ドイツ語の挨拶は『グーテン・ターグ』だが、ドイツ南部やオーストリアのほうへ行くと『グリュース・ゴット』という。若い世代になるとあまりつかわないが、直訳すると『神様へよろしく』ぐらいの感じになるだろうか。今回は教会のお話である。
※この記事はメールマガジン『ドイツ発 わが輩は主夫である』(2006年11月17日付) に執筆したもの です。
■教育機関と宗教
ドイツの住民票などでは宗教を明記するが、わが家は無宗教で通している。学校や幼稚園にも無宗教で登録している。
小学校では宗教の授業がある。しかもカトリックとプロテスタントにわかれている。無宗教や他の宗教の子供は倫理という授業になる。わが家の子供も倫理の授業を受けている。
だが、けっこう教会へ行く機会がある。子供たちが通う幼稚園は教会が運営しているということもあり、キリスト教関係の行事でなどで教会へ行くことになるのだ。
たとえば毎年、11月に子供たちが思い思いのランタンを持って行列で歩く行事がある。夕方の6時ごろのことだが、この時間は真っ暗。まさに提灯行列である。
この行事は中世の聖マルティンの逸話がもとになっている。
行列で歩く前に、幼稚園のほうでは教会で牧師さんの話をきいたり、歌を歌ったりする。
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小学校の校庭。牧師さん(右)と神父さん(左)が並んでいる。(1995年11月) |
お話や歌がおわればランタンを持って行列だ。
いつぞや、イスラム圏のお母さんが教会での話しが終わるのを見計らって、子供を連れてやってきたところを見かけたことがある。そして、行列だけに参加した。子供にとってはこれが楽しみなのだから、お母さんは妥協点を探し出した、というところだろう。キリスト教の行事とはいえ、事実上、ドイツの子供たちの行事なのだ。
小学校でも教会へは行かないが、校庭でスライドなどを見ながら聖マルティンの話を聞いたり、歌を歌う。幼稚園と小学校は隣接しているので、同じ日に行わないように調整しているのだが、それにしてもわが家は2日連続行事に参加することになる。
面白いのは小学校での行事は、牧師さんと神父さんが一緒に行っていることだ。プロテスタントでは『牧師』、カトリックでは『神父』という。つまり両方が共同で行っているかたちだ。
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教会でのコンサート。ファンキーな音楽が鳴り響いた |
実は入学式のあとも、新入生のために教会でミサがあるのだが、やはり牧師さんと神父さんが共同で行う。このミサはもちろん強制ではないので、行きたい人だけば行けばよいのだが、いずれにせよ身近に『キリスト教』がある。
また、こういった行事以外にも幼稚園の保護者と先生の有志でやっているゴスペルグループやアマチュアのブラス系のファンクバンドのコンサートが教会で行われる。こういうものにも、子供たちと一緒に出かけるのだ。
■身近な公共施設
『いちおう仏教徒』である私が、こういった様子に肯定的なのは、私自身の体験がある。
私の故郷は100世帯ほどの小さな村なのだが、子供のときはお寺に和尚さんがいて、村の顧問とかご意見番のような立場であった。大人たちは尊敬していたし、今から思うとそれ相応の人徳をもっていらっしゃった。道で挨拶なんぞすると『かしのお(かしこい、かしこい)』といって頭をなでてくださったものである。実に絵に描いたような『村の和尚さん』であった。
昨今、お寺といえば駐車場経営にいそしんでいるところや、はたまた葬式仏教と化しているところが多い。しかしお寺は本来、共同体に必要な多くの公的機能を担っていた。私の故郷でも例の和尚さんが存命の時はそうだった。
ドイツの話にもどると、この『村の和尚さん』の雰囲気が教会を見ると感じられるのである。
最近は日曜日のミサに行く人も少なくなったし、歴史を見れば人々の宗教に対する関心は時代によって濃淡がある。またエアランゲンは人口10万人の街だが、ドイツの感覚からいえば歴史的に『都市』である。それにしてもまだまだ教会と共同体の関係は強い。学校などの教育機関と結びついているのもその一因であろう。
教会はもともと、人々の社交の場でもあった。小さな村の教会でもしばしば地下に広いスペースを持ち、かつては若者がディスコパーティーを開くこともあったようだ。今でも前述のように教会がコンサート会場になったりするし、教区の公民館のような施設が併設されていて、よく利用されている。たいてい簡単な舞台や台所がついている。
そういえばドイツの人々は節目節目に大きな誕生パーティを行うが、先日友人が開いた40歳の誕生パーティ会場は友人の自宅のすぐそばの教会に併設された『公民館』であった。
■宗教体験と共同体
ひるがえって、教会に限らず、宗教施設は祈りの空間であり、独特の空気がある。私としては社会の中でこういう場所があり、かつ必要なものだということを体験できるので、たとえ無宗教で登録していても、教会に行く機会は意味があると思っている。さらにいえば宗教施設が共同体と結びついている点が、子供の宗教体験としてもよいと考えている。
ところで、半年ぐらい前からどういうわけか、幼稚園を経営している教会の牧師さんが、私の顔を見るなり『こんにちは、高松さん』と名前をつけて挨拶してくれるようになった。
挨拶そのものはお互いずいぶん以前からするようになっていたが、牧師さんは日常的に幼稚園にくるわけでもない。また個別に話したこともないので名前も知らないはず。おそらく幼稚園を経由して私の名前を知ったのであろうが、いや、驚いた。
しかも牧師さんは『挨拶の早撃ガンマン』である。私はいつも0.5秒差で遅れをとってしまう上、牧師さんの名前がなかなか覚えられず、『こんにちは』だけで終わってしまう。子供のときは和尚さんを見かけるといち早く挨拶したものだが、ドイツでは毎回、恐縮し、妙な敗北感が残る。いやマイッタ。ちなみに『こんにちは』と訳した牧師さんの挨拶は勿論『グリュース・ゴット』である。私も牧師さんにはなんとなく『グリュース・ゴット』をつかっている。(了)
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