ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2008年4月4日



匿名文化が意味するもの

ドイツの社会を見ていると、匿名を避けるようなところがある。逆に日本の場合、匿名が好きだ。ありきたりの表現を使うと顔が見えないのだ。『匿名文化』について考えてみたい。

照れてしまう
私は深夜ラジオはあまり聞かないほうであったが、たまに聞いたときに違和感をおぼえたのが『匿名希望』やラジオネームといったペンネームでの投稿だった。ラジオ文化といえばそれまでだが、妙に恥ずかしかったのだ。

この手のものはネット全盛の今日でもある。ネット上で用いる名前『ハンドルネーム』とを使う人がいるが、たまに『はじめまして、ハンドルネーム・ポンタと申します・・・』などというメールを受け取ると妙に恥ずかしいのである。困るのは返事だ。『ポンタさん、メールありがとうございます』などと書かねばならない。これがまた照れるのだ。

もっとも、これらは身元を明かさないという目的のみならず、言葉遊びやある種の自己表現であることもある。

そもそも日本には文化的にいえば複数の名前を持つ文化的下地がある。俳句・川柳を詠む人は今も多いがたいていの人は俳号を持っているだろう。もちろんアルファベットの世界でも文字を入れ替えて変名するアナグラムというものがあるが、俳号のようなポピュラーなものでもないと思う。

またもう少し掘り下げれば、日本語の人称の種類は多く、一人称だけを見ても相手や状況によって『僕』『俺』『私』をはじめ使い分けするようなところもある。それだけにラジオネームやハンドルネームに対して一定の理解はする。

しかし、それにしてもどこかこそばゆい。

『匿名希望』の違和感
さてラジオ文化でもうひとつ違和感があったのが『匿名希望』だ。『ネタとしては面白いが自分の恥』、という内容のものなら、一歩譲って理解できるが、中にはまともな内容でありながら匿名希望のものもある。俳句・川柳などの文芸という側面から見れば『詠み人知らず』の系譜かもしれない。それにしても『なんで名前を隠すねん』というふうに感じたのだ。

この違和感は今もある。そしてドイツに住み始めてからいよいよ強くなった。

典型的なものがネットの世界だ。日独のホームページを見ていると、ドイツのものは担当者の実名がはっきり書いてあることが多い。

それに対して日本の場合、匿名が好きだ。インターネット上の掲示板『2ちゃんねる』などは匿名文化の象徴として語られることがあるようだが、企業や諸機関のサイトでも問い合わせ先の担当者の実名が明示してあるケースがドイツに比べると少ない印象が強い。

余談だが先日、たまたま日本の幼稚園のサイトを調べていたのだが、下手すると理事長や園長の名前すらわからないところがあるのには驚いた。

社会の専門化
日本社会ではなぜ個人の名前が出てきにくいのか。

行政や企業などの場合、日独を比較するとドイツのほうは職業社会で人事異動もそれほどないというところにある。また欧州の近代化の過程を見ると、社会の中で個人の専門化が進むが、そのため職場においては責任と権限が明確になりやすい。これが担当者の名前が堂々と書かれるひとつの理由だろう。

しかしその裏返しで電話で問い合わせをしようと思うと担当者につながるまでたらい回しにされやすい。休暇中であると『○日に戻ってくる予定です。またそのときにかけて下さい』でオシマイということも多い。一方たらい回しは日本でもないわけではないが、ドイツに比べると電話をとった人がなんとか要望にこたえようとするケースがけっこうあるように思う。

ついでにいえば、日独の比較をするとドイツの職場はのんびりしているが、こうした職業の専門化が大きな理由のひとつだろう。

公の言論空間
それからもう少し一般的にいえば、日本の言論における公共空間の脆弱さが匿名性を増やす理由のひとつであろう。

ドイツを見ると、国家と個人のあいだに『公共性』とか『社会』がある。市民社会とかNPOはこういう国家と個人のあいだの層に存在する。三層構造だ。

それに対して日本の場合は歴史的に見ると『国家』とは『お上』であって『公共性』も国家が担っているというケースが多い。つまりこちらは二層構造だ。そもそも日本には『社会』という概念はなかった。

公共性を維持するのは結局、個人と個人の社交によるもので、ここに公共の言論空間も生まれてくる。また公の言語というものも発達してくるといえるだろう。欧州におけるジャーナリズムもそういった枠で考えると理解しやすい。

福澤諭吉は『Society』を社交術と翻訳しているのだが、社会とは言論様式も含む社交によって成り立っていることをうまくついている。またドイツのみならず欧米では寛容性を重要視される傾向があるが、これは言論に関する非寛容性は社会をつぶしてしまう、という了解が大きくあるためといってもいいだろう。

求められる社交術
私は大筋でいえば匿名文化に反対意見だが、『2ちゃんねる』も場合によっては『公の言論技術』でまともな意見の表明が書き込まれていることもある。また発言者の立場と内容によっては匿名が必要なことも理解はできる。

そんなことを考えると、日本の匿名文化で本当に問題視しなければいけないのは『対話技術』(対立するための言語技術)が不十分であり、『公の言論空間』が脆弱ということだろう。

昨今、面とむかって抗議すれば相手が切れて、下手すれば殺傷事件につながるリスクがある。実名で文書で抗議をすれば住まいや行動パターンを探られ、ストーカーまがいのことをされることも考えられる。

これは対話技術が不十分ということにほかならない。そもそも『切れる』というのは言語で表明できないことから起こると見ていいだろう。

それから、かつてムラ社会や長幼の序といった人間関係を成立させていたものが健在であったときは、なんらかの問題があれば、実名で抗議せずともうまく立ち回る仕組みがあった。もちろんそんな人間関係で『なき寝入り』というケースも少なくない。泣き寝入りの末に命を落とすと化けて出た。

ともあれ、かつての人間関係では公の言論空間はあまり必要ではなかったともいえるが、近年になるとこんな人間関係も怪しくなった。そのとたん、対話技術の未熟さや公の言論空間が脆弱であることが露呈してしまった。これが今の日本だろう。

ハンドルネームの類は個人的にはあまり好きになれないが、まだまだ日本文化の延長として肯定できるものがある。しかし匿名文化については、一定の理解はするが、日本の脆い部分をさらけ出しているように思えてならない。(了)


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