ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2007年10月30日





ドイツには合唱の文化がある。最近体験したパーティの様子から日独の歌について考えてみた。

長いパーティ
人口2万2000人の町の大きなパーティに参加した。パーティの開始時間がそもそも遅く、その上、市長の長い演説が続く。会場はまだありつけぬ食事が気になりだす。

同じテーブルには女性の副市長がいた。私はこの町に所用でしばしば訪ねることがあり、知人も少なくない。副市長の女性とも以前、会ったことがある。年齢は40代後半から50代前半といったところだろうか。品があって快活でユーモアのある魅力ある人物だ。彼女は同じテーブルの人と相変わらず楽しそうに話しているが、会話が途切れると疲れが顔に出た。

『お疲れのようですね?』
『そうですね。いつもは、そろそろベットに入る時間ですからね』

そういって苦笑いをしながら肩をすくめた。

やがてパーティがお開きになり、人々は三々五々、帰りだした。ドイツは日本のように宴のシメや場所を変えての二次会という習慣がなく、正式の次第が終われば、好きなときに帰る。そして一方で同じ会場で延々と宴を続ける人々が残る。そういうパターンが多い。

副市長の豹変
居残り組は議員や いわゆる町の名士たちであった。
広い会場には大きい島と小さな島ができた。顔ぶれを見ると SPD(社民党)と CDU(キリスト教民主同盟)に分かれていて CDU のテーブルのほうが大きかった。これはこの町の勢力の縮図になったかたちだった。副市長も CDU テーブルに座って話し込んでいる。

面白いのは大きな島の連中が歌いだしたことだ。25,6人がいただろうか。合唱である。しかもハーモニーがおそろしくきまっているのである。途中からピアノの弾ける人が会場のピアノを使って伴奏まで付け出した。副市長も先ほどの様子とは打って変わり、元気いっぱいに歌っているではないか。隣にすわる友人によると猟師(Jaeger)の歌らしい。

やがて小休止という感じになると、副市長がテーブルを立ち、『さあ、あなたはワイン? コーヒー?』と聞いて、グラスにワインを注ぎだした。気風(きっぷ)のいいお母さんがハナタレ坊主たちを相手にするような雰囲気で、彼女の快活な性格が出たと、いう感じである。彼女の前では白髪のいかつい顔したオジサンもすっかり坊やに見えてくる。

分かる人にはわかる、という言い方をすれば、宮崎アニメの『紅の豚』に登場する歌姫ジーナと『天空の城 ラピュタ』に登場する空賊(海賊の空中版)の女船長ドーラを足して2で割った、そんな雰囲気である。

そしてまた、歌が続いたのだった。

独唱の日本?
音楽学者の小島美子さんが20年ぐらい前に『歌をなくした日本人』という本を出されていたが、副市長たちの合唱の様子を見たとき、ふとその本のタイトルを思い出した。が、きちんと読んでいないし、ずいぶん前にページを開いてそれきりなので、どういうことを書かれていたのか覚えていない。

ただあてずっぽうでいえば、日本ではもともと、合唱というよりも独唱の文化のほうが強かったのではないか、という印象がある。大勢で声を出すといえば、謡曲だったり、歌というより『囃し立てる』という感じで『合唱』とは少し異なるように思えるからだ。

その小島さんが15、6年前にテレビでこんな旨のことを話されていた。歌は宴のときなどで行われる罰ゲームだったが80年代半ばからのカラオケで多くの人が率先して歌うようになった。というのだ。もっともカラオケのおかげで、日本人のマイクで独唱する時の歌唱力の底上げがおこっているようでもある。外国人がときどき『なぜ、日本人は人前であれほどうまく歌えるのか』と驚くことがあるらしい。

あるいは都都逸や小唄がある。私にはお茶屋遊びは縁がないので実態はわからないのだが、三味線に合わせて旦那衆は喉をお座敷で披露していたのではないか。カラオケにしても、そもそも酒場の余興に対応するために作られたというから、お茶屋遊びの様式をついでいるように思える。

ともあれ罰ゲームの歌やカラオケ、あるいはお茶屋の遊び、いずれも独唱である。私自身をふりかえっても、みんなで歌を歌うという機会は大人になってからはない。もちろん日本には多くの合唱団があり、近年であればゴスペルもよく歌われたりしているが、様式としてはあくまでも西洋のものであることはいうまでもない。

日本で大勢で声を揃えて組織的に何か歌うというと、近代思想が導入されてからのことで、学校教育や軍隊などがその先駆けではないか。組織としての一体感とか、組織に対する帰属感を高めたり、確認することが声を揃えて歌うことで実現できるわけだ。近代国家の枠組みの中にある歌声である。

また、かつて肩を組んで寮歌を歌った、とか、フォークソングや反戦歌などを大勢で歌ったということがあったが、これらも明治以降の近代思想の導入に基づく影響とか、アメリカ文化の影響と考えたほうが分かりやすいように思える。

『踊り』と『歌う』の分岐点
一度ミュンヘンのレストランでカラオケに興じたことがある。ビートルズやストーンズなどのナンバーを数曲歌ったのだが、日本のカラオケボックスとは異なり、歌にあわせて皆、踊りだす。

こういうカラオケの楽しみ方の違いはしばしば耳にしていたが、実際に目の当たりにしてみると、ドイツの人々はカラオケをジュークボックスの延長として受け入れているように思われた。実際、ドイツのホームパーティでは音楽がなると、踊る人がけっこういる。

そんな様子からいえば、独唱による音楽は聴くか、踊るためのものという了解があるのかもしれない。そして実際に歌うといえば合唱ということが強いのだろう。

合唱の文化は教会音楽がベースになっていたりするのであろうし、ドイツに住んでいると、合唱文化の厚さというのはところどころで目に付く。副市長たちのテーブルでおこった合唱もその最たるものなのだろう。

ただ、この合唱文化も年代によってはばらつきがありそうだ。副市長たちのテーブルにいた人たちの最年少はおそらく30代半ば。私の隣にいた友人もおそらく40代前半というところだろう。彼らも多くの曲を一緒に歌い、楽しんでいたが、時々『この歌になると、われわれには、もう歌詞がわからない』といっていた。大げさにいえば継承されていないということだ。若い年代になると、歌う機会が少ないということかもしれない。
※    ※
ひるがえって、パーティの翌日、再び副市長と顔をあわせた。
『昨夜は、最初眠いとおっしゃっていましたが、後半は実に楽しそうでしたね!』と話しかけた。
副市長は『今朝はおきるのがつらかったです』と笑った。(了)

※ドイツ語の表記は英語式のアルファベットで書いています。

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