■国立図書館と国家アイデンティティ
国立図書館(ナショナル・ライブラリー)といっても『ああ、あれね』というふうにピンと来る人はそう多くはいないであろうが、国立図書館とは19世紀の国民国家の文脈でいうと、知的遺産・資料を網羅的に収集・保存する機能を持つ。ユネスコなども国立図書館を基本的にそのように考えているようだが、ユネスコそのものは西欧近代の嫡子である国連の関連機関である。当然といえば当然だ。
国立図書館がなぜそういった機能を持たさねばならないかというと、国家とはアイデンティティを強烈に持たねばならないからだ。そうでなければ他国から尊敬されない。国家アイデンティティの確立のために文化政策があり、そして本や音楽などのソフトパワーをしっかり集積する必要がある。知識とか芸術は欧州の近代ではあきらかに政治的な文脈の中にある。
それゆえに国会図書館とは自国の出版物を網羅的に集めるために納入義務が出版社に課せられている。ドイツにいたっては法律上、その義務を怠ると罰金まで課せられる。
余談だが、ソフトパワーこそ国家アイデンティティといった考え方があるため、検索エンジン・グーグルの台頭は国家的危機感という考え方もでてくる。構造的にいえば国内のソフトパワーの入り口をアメリカ企業に握られてしまうというかたちになるからだ。それを受けてフランスは検索エンジン開発の国家的プロジェクトを立ち上げ、ドイツもそれに加わるかたちになっている。
■都市から国家へ
ドイツは領邦国家の歴史が長く、現代は連邦制をとっている。そんなことから日本と比べると地方都市の自律性が高い。
この自律性をささえているものは何かを見ていくと、国家を設立・運営するにはどんなコンセプトやインフラ、諸制度がいるのかということが都市から発展したのではないかと思われることがたくさんある。年金制度などは明らかにそうであるし、城壁に囲まれた都市を守るための自衛団などは軍隊につながるものがある。『都市が国家の雛形をつくった』という見方をすれば、ドイツの国立図書館についても同様のことがいえそうだ。
そもそもドイツでは国立図書館のような機能を持つ図書館ができたのは欧州の国々では遅かった。ただし、王国などのレベルでは王国内の出版物を網羅的に集める『国立図書館』はあった。たとえば16世紀に設立されたバイエルン州立図書館などもそうで、今も図書館の役割として『バイエルンの文化保護』ということが明記されている。
すなわちドイツ国内には『国家には国立図書館がいる』という考え方はあったのだが、ドイツ統一国家として国立図書館の設立は難しかったということだ。
年表を見ると1912年にようやくドイツ国内の納本のための図書館はライプチヒ(ザクセン王国)にできている。機能は国会図書館のようであるが、『国立』ではない。
そもそも図書館設立の言いだしっぺはライプチヒの出版社の組合で、ザクセン王国と契約するかたちで成立した。あくまでもザクセン王国内の図書館というわけだ。
ライプチヒは出版文化の盛んなところである。ドイツといえば、フランクフルトの大きなブックメッセが有名だが、もともとはライプチヒで行われていたものだった。戦後、ライプチヒは東ドイツ領になってしまったのだ。
ここでドイツの都市の話をすると、中世にはツンフトという職業別の組合があり、そのツンフトが都市の中で大きな存在感があった。今でもドイツの職業意識は強いが、この伝統によるものだ。職業別組合の強さを背景に、ライプチヒという一都市が国家が本来やるべき納本図書館をつくったというふうには見ることができないだろうか。
これを実証するには資料をもっと読み込まねばならないのだが、ひとつの都市が国家に必要な要素をつくるのに一役かったケースのように思えてならないのだ。
■なぜライプチヒだったのか
ここで、ライプチヒの図書館がなぜ生まれてきたかをタイムマシンに乗って取材してきたかのような想像を加えて書いてみる。
出版社は当然、著述者との付き合いがある。彼らは当時の欧州の最新の知識や思想をもっていたはずだ。したがって編集者と作家たちは、たとえばこんな会話をしていたのかもしれない。
『先生、最近ドイツも大変でんなあ』
『そやな。せやけど、なんやで、ドイツもぼちぼち国中の本なんかをちゃんと集めとかんといかんで。そうせんと、国としてのカッコがつかへんがな』
『そら、そうでんなあ』
関西弁になっているのは私の出自のせいだが、とにかくこういった会話が増えると出版社の経営者らの間でも、国家には国会図書館が必要という考え方が共有できてくるのではないだろうか。
ちなみにライプチヒでは、1848年革命の際には自由化運動がここから広まったし、旧東ドイツの末期(1989年)には月曜デモという反体制運動がおきている。
『出版業の集積=知識の集積』という構図があって、言論の自由ということに敏感になってくる。こうしたことが体制を動かす源になっているようにも思える。
■違和感ある日本の国会図書館
さて、そこでわが日本の国立図書館に相当する国立国会図書館をみてみよう。同図書館のホームページには『真理がわれらを自由にする』という言葉が掲げられている。
これは国立国会図書館法の前文にかかれたものだが、この確信に立って、『憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与すること』が国立国会図書館の使命だとしている。
さらに昭和23年の衆・参両議院本会議での説明によると『国立国会図書館は、知識の泉、立法のブレーンになる。あらゆる材料をここに集め…文化の促進をはかり、産業の高揚をはかる仕組である』としている。
真理がオープンになれば平和的な民主主義が機能するということは限定的には正しいと思う。また知識が文化や産業を興隆させるという考え方も整合性がある。これは欧州でも啓蒙主義などに見られるのだ。
しかし、日本の国会図書館にまつわる議論からは国家のかたちを知的遺産でもってつくっていくという意味での国立図書館像がなかなか見出せない。もっとも法案が成立した時代を考えると、『国のかたちをつくる』といった類のナショナリズムを想起する文言はご法度だったのかもしれない。
それから『真理がわれらを自由にする』という言葉がどこからきたのかを見ると、これまたかなり違和感がある。
この言葉は法案の起草に加わった議員がドイツ留学中にフライブルグ大学でみた銘文からとっているという。それから考えると、この言葉は学究を目的とした学術図書館や市民の知識の底上げを考える公共図書館には使える。が、国家のソフトパワーこそ国家のアイデンティティをつくるといった意味は見出しにくい。
この文言を日本に持ち帰った議員氏が欧州やドイツについて、どれほどの見識があったのかはわからない。だが少なくともホームページに記載されているものを読む限り、国立図書館と近代国家との関係についての理解があったように考えるには難しい。
■ソフトパワーのクラスター化が必要
ドイツの国立図書館ができたのは遅かった。現在の国立図書館も長いあいだ『ドイツ図書館』で、法的に『ドイツ“国立”図書館』となったのはなんと2006年になってからだ。ドイツでは国家には国立図書館が必要という考えが州(王国)単位ではあり、おそらく知識人たちも持ち合わせていた。だが政治的特殊性が国立図書館の設立を遅らせた。
一方、日本は国家と国立図書館の関係を理解せずに図書館をつくってしまったといえるのではないか。ドイツから日本をみると『輸入近代』のひずみを端々に感じるのだが、図書館もそうであった。
グローバリズムの時代に偏狭なナショナリズムはそぐわないが、実は国家アイデンティティ、あるいは国とか地域のシンボルは文化を通して前面にでてくる傾向がある。
特に日本のように平和憲法を戦略的に前面に出すのであれば、同時に国家の存在感を文化で補う必要が不可欠だ。
もちろんここでは文化を統制するという意味ではない。国家が行わなければいけないことはソフトパワーの集積・発信ということである。国として文化のクラスター化を一度してみる必要がある。ここでは必ず政治色がつくが、法的に文化活動の自由を保障しつつ、あくまでも国家の存在感を国際的に創出することが肝要だ。これによって基本的な平和が維持され、文化活動のための基盤も保障されるという循環構造ができる。
国際的にみると図書館は蔵書のデジタル化やネットでのアクセスといったことに関心が高まっている。しかし国立図書館にいたっては、なぜ本を集めるのか、ということを国家戦略の中でもう一度検討する必要があると思う。(了)
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