ドイツ・エアランゲン在住ジャーナリスト
高松平藏 のノート
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2006年10月14日


ドイツの柔道

今年の4月から柔道をはじめた。家族でできる『ファミリー・コース』である。コースの性格上、それほどハードな稽古はしないが、運動不足の私たち夫婦にはちょうどよい。ただ、この柔道、妙に違和感があるのだ。

■フィジカル・テクノ柔道
私がおぼえた違和感を説明するのに、ちょうどよいのは初日の出来事だろう。

その日のことを少し書く。
稽古のはじまりは、まず先生と対峙するかたちで一直線に並ぶ。

おもむろに先生が座る。 端の生徒から順々に座っていく。目測だが40人ぐらいはいるので、なかなか壮観だ。

『モクソー』
日本語で先生が言う。皆、黙想する。『モクソー、ヤメ』

そして生徒の代表のような人が
『センセー 二 レイッ!』と言う。

これが稽古のはじまりである。
そして体をほぐすために軽く走る。驚いたのはこの時、いきなりテクノミュージックが鳴り響いたのだ。これにあわせて、『ジュードー・ホール』を皆でぐるぐる走る。

途中で後ろ向きになって走ったり、ぐるぐる回転しながら走ったり、横走りをしたりして体をほぐすのだ。

毎回、音楽をかけるわけではないが、この時の驚きは何だったかというと、あまりにもフィジカルだったことである。これが私がおぼえた違和感だ。

■身体観の違い
この違和感はどこからきたかといえば、身体観の違いである。
単純化すると、日本では心と体をひとつと考える。一方、心と体を分けて考えるのが西欧だ。

心と体をひとつと考える日本の身体観は、『根性』『辛抱』といった言葉でスポーツの世界に重要な原理として取り入れられてきた。『スポ根(スポーツ根性もの)』というジャンルのマンガやドラマがかつて幅をきかせていたが、エンターテインメントの世界にまで日本の身体観が影響してきたといえる。

柔道をはじめとする日本の武道も大雑把な言い方をすれば、こういった身体観が根底にある。

さらには、戦争中に『物資がなくとも精神力で勝つ』という趣旨のことが言われたそうだが、これなどは日本の身体観が極端な形で出たものだろう。

ともあれ、日本のスポーツに対して私自身、特に10代のころは嫌悪感を抱いていたものだが、どうころんでも私は日本文化圏で育った人間である。知らず知らずのうちに、日本的な身体観は所与のものとして吸収している。

そこへフィジカルなテクノ・ジュードーを体験したわけだ。
むろん、ドイツの柔道も、もっと上のクラスの様子は違うかもしれないし、名人級の人なら柔道を通して日本的な身体観も会得しているかもしれない。それにしても、私はあまりにもフィジカルな様子に違和感をいだいたわけである。

身体観と柔道のことを考えると、気になるのが柔道を確立した嘉納 治五郎の話である。嘉納は1909年、クーベルタン男爵からの依頼でIOC(国際オリンピック委員会)の委員になった。このとき、嘉納自身、どのようなことを考えたのか想像すると興味深い。

さて、わが家の運動不足と家族で楽しむ時間を提供してくれているファミリー柔道。いつぞや映画『フラッシュダンス』(1983年)の主題歌『フラッシュダンス:ホワット・ア・フィーリング』が流れてきたこともあった。やはりフィジカルな柔道である。(了)

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